フォーレ 弦楽四重奏曲_2021.6.21
- Kanon Kobayashi/ 小林香音
- 2021年6月2日
- 読了時間: 3分
更新日:2024年4月16日
フォーレを演奏するのは,23歳の私にとってはヴァイオリンソナタ第1番以来.
そのソナタのとにかくみずみずしい印象しかなかったので,この弦楽四重奏曲を初めて試聴した時は驚いた.
静謐,多重の光と影,まるで木の葉のささやきのよう.フーガ形式で,そこに重なり合う色を感じた.
楽譜に集中する.同時に作曲背景も知る.おそらく晩年作だと思ったがまさに最晩年で,死のつい2ヶ月前に完成した,しかも彼の唯一の弦楽四重奏曲の作品とのことだった.
異名同音での変化,ふとした瞬間の解決する音を探す楽しさ.
取り止めないようで,それでいて朗々と語るようで.教会音楽のようで.
心情が見えてこず,層を幾分にも重ねていく感じで,音楽自体の美しさに没入できる音楽であると感じた.
祈りのようだとも思った.
晩年フォーレは低い音が高く,高い音が低く聞こえる症状とたたかっていた.
その影響からか,4弦の音域帯はとても狭く,密だからこそ,溶け合っている.
3楽章はあらゆるしがらみから解放され,カタルシスがやってきくる.
ドビュッシーの最晩年作のヴァイオリンソナタにも通じるところがある.
走馬灯のように駆け巡る.
人生の最期の時間にいる彼らのいた境地はどのようなものだったのだろう.世界はどのように見えていたのか.朧げながらも混沌が感じられていたのか、希望と苦しみと?
音楽はときに創りての内面をうつす鏡のようなものと感じるが,フォーレも死の超直前,そんな境地に達していたのだろうか.
次に行くべき音が,予想できるようで,驚きのようで.
でも驚き過ぎて奇抜だという音はなく,全てが予定されている,行くべき場所が予定されているように感じる旋律だ.
しかし、次の音に安易に行くべきではないのではないかという葛藤も感じてしまうような重みがある.
全体的に捉え所のない,難しいと感じる自分もいたが,そもそも,
”わかりやすく”なんてはなはな書かれていない.
風景を想像するものではない.このまま受け取り,音楽の中にある,一瞬の解決の瞬間を,逃さず感じたい.
「私がこの世を去ったら、私の作品がいわんとすることに耳を傾けてほしい。結局、それがすべてだったのだ……。おそらく時間が解決してくれるだろう……。心を悩ましたり、深く悲しんだりしてはいけない。それは、サン=サーンスや他の人々にも訪れた運命なのだから……。忘れられる時は必ず来る……。そのようなことは取るに足らないことなのだ。私は出来る限りのことをした……後は神の思し召しに従うまで……。」
— 1924年11月2日、死の2日前にフォーレが息子たちに残した言葉
以下フォーレ論を記したジャンケレヴィッチの言葉より.
「フォーレの作品は日付を持っている。それらの作品は、それが生み出されていった時の流れに位置を定めつつ、音符の数を次第に減少させ、譜面の曇りを払い、そして現実の向こう側で私たちの魂の耳に〈見えざる和音〉を響かせてくれる」
参考文献:
『音楽から沈黙へ フォーレ―言葉では言い表し得ないもの…』ジャンケレヴィッチ,ウラディミール.大谷 千正ほか訳.新評論.2006/8.
